芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の解説は正直いって大変です……。
すっごく深いテーマを扱った作品で、一回読んだだけでは理解が難しいですよね。
この作品は1918年に発表された短編小説で、地獄に落ちた大泥棒カンダタが、お釈迦様から垂らされた蜘蛛の糸をつたって極楽へ向かう物語。
短編小説でありながら、仏教的な教えと人間の本質を見事に描いた傑作だと思います。
芥川龍之介といえば『羅生門』や『鼻』で有名な明治・大正時代の文豪ですが、『蜘蛛の糸』は彼が初めて手がけた児童文学としても知られています。
まず要点だけをまとめると……
- 『蜘蛛の糸』は人間のエゴイズムと救済をテーマにした仏教的寓話
- 蜘蛛の糸は希望や救済のチャンス、そして試練の象徴
- 登場人物は現代社会の様々な立場の人間を表している
- 糸が切れた理由はカンダタの利己的な心にある
- 芥川は東洋思想と児童文学への新しい挑戦を込めた
「読書感想文を書きたいけど、この作品の本当の意味がよくわからない…」って悩んでませんか?
でもご安心を。この記事では、同じように『蜘蛛の糸』の深い意味に戸惑った読者の疑問に答えながら、作品の核心部分を詳しく解説していきますよ。
私自身も最初に読んだときは「なんで糸が切れたんだろう?」「お釈迦様は何を考えていたんだろう?」と疑問だらけでした。
それじゃあ、具体的な解説を見ていきましょう。
『蜘蛛の糸』という小説の意味
『蜘蛛の糸』を理解するためには、この物語が持つ多層的な意味を読み解く必要があります。
表面的には仏教の因果応報を説く道徳的な物語に見えますが、実際にはもっと深いメッセージが込められているんです。
この作品の核心は、人間の本質的なエゴイズムと、それが真の救済をいかに妨げるかを描いた心理ドラマなんですね。
以下の3つの観点から、『蜘蛛の糸』の意味を詳しく見ていきましょう。
- この物語をどうとらえるべきか?
- 蜘蛛の糸は何の象徴?
- 釈迦やカンダタや悪人たちは現代社会で言うと?
それぞれの要素が相互に関連し合いながら、作品全体の深い意味を形成しています。
この物語をどうとらえるべきか?
『蜘蛛の糸』は単なる勧善懲悪の物語ではありません。
この作品は「真の救いとは何か」「人はどのように生きるべきか」という根源的な問いを私たちに投げかけているんです。
カンダタの行動を通じて、せっかく与えられたチャンスを人間の浅はかな欲望や自己中心的な心が台無しにしてしまうという厳しい現実を突きつけています。
お釈迦様の慈悲とカンダタの業の対比は、善と悪、救済と堕落といった二元的なテーマを浮き彫りにするんですね。
救いは常に開かれているけれど、それを受け取る心の準備と利他的な精神がなければ、掴み取ることはできないという教訓が込められています。
蜘蛛の糸は何の象徴?
物語のタイトルにもなっている蜘蛛の糸は、複数の象徴的な意味を持っているんです。
まず最も直接的な意味として、地獄の苦しみから抜け出すための唯一の救いの手であり、絶望の中に差し込む希望の光を象徴しています。
カンダタのたった一度の善行によって与えられた、かけがえのないチャンスなんですね。
また、蜘蛛の糸は非常に細く、一人で登るにはギリギリの強度しかありませんでした。
これは個人の努力や自らの力で道を切り開くことの困難さ、そしてその努力がなければ救いは得られないという「自助」の重要性を示唆しているんです。
さらに、糸がカンダタの利己的な振る舞いによって切れてしまうことから、これは単なる物理的な救いではなく、心のあり方を試す仏の試練であるとも解釈できます。
釈迦やカンダタや悪人たちは現代社会で言うと?
『蜘蛛の糸』の登場人物たちは、現代社会における様々な役割や概念に置き換えて考えることができるんです。
登場人物 | 現代社会での象徴 | 具体例 |
---|---|---|
釈迦(お釈迦様) | 理想的なリーダー・支援者 | 困っている人に手を差し伸べる教育者、社会制度、慈善精神の象徴 |
カンダタ | 自己中心的な現代人 | 他人の犠牲の上に成功を築こうとするビジネスマン、利己的な個人 |
悪人たち(地獄の罪人) | 社会の弱者・大衆 | 困難な状況に置かれた人々、集団心理に流されやすい民衆 |
釈迦は現代社会における「機会」や「支援者」、あるいは社会福祉や救済制度の象徴と考えられます。
カンダタは自己中心的な行動をとる個人、競争社会で「自分だけ助かればいい」と考える現代人の姿に重なるんですね。
悪人たちは現代の格差社会や競争社会における「他者」や「ライバル」、あるいは同じく救済を求める人々の象徴なんです。
『蜘蛛の糸』の疑問点を解説
『蜘蛛の糸』を読んだ多くの読者が抱く疑問について、詳しく解説していきます。
特に「なぜ糸が切れたのか」「お釈迦様は何を考えていたのか」という点は、作品の核心を理解する上で重要なポイントなんです。
これらの疑問を解決することで、『蜘蛛の糸』の深い意味がより明確に見えてくるはずです。
以下の2つの疑問点を中心に、詳しく見ていきましょう。
- 蜘蛛の糸が切れた本当の理由
- 釈迦はカンダタの愚かな性分を見抜けなかった?
これらの疑問に答えることで、芥川龍之介が込めた真の意図が理解できるようになります。
蜘蛛の糸が切れた本当の理由
物語では、カンダタが「これは俺のものだ」と叫び、後から登ってくる罪人たちを蹴落とそうとした瞬間、蜘蛛の糸がプツリと切れてしまいます。
この出来事の本当の理由は、物理的な限界だけでなく、カンダタの心の状態にあるんです。
糸が切れた直接の原因は、カンダタの利己的な「我執(がしゅう)」が極限に達したことなんですね。
仏教において、我執とは「自分」という存在や自分の利益に固執する心のことで、あらゆる苦しみや煩悩の根源とされています。
カンダタは、せっかく与えられた救いの機会を自分だけのものにしようと独占欲を露わにし、他者を排斥しようとしました。
この「自分さえ良ければいい」という心が、彼を救いから遠ざけたんです。
お釈迦様は、カンダタのたった一つの善行(蜘蛛を踏まなかったこと)によって、彼に救いの機会を与えました。
しかし、この救いは単なる物理的な脱出だけでなく、カンダタの心が真に救われるに値するかどうかの試練でもあったんですね。
釈迦はカンダタの愚かな性分を見抜けなかった?
お釈迦様がカンダタに蜘蛛の糸を下ろしたとき、彼が結局利己的な行動に出てしまうことを見抜けなかったのか、という疑問を持つかもしれません。
しかし、お釈迦様の行動は、見抜けなかったのではなく、むしろすべてを見通した上での慈悲と解釈するのが適切なんです。
仏教におけるお釈迦様は、あらゆる存在の過去・現在・未来を見通す「智慧(ちえ)」を持つとされています。
したがって、カンダタが最終的にどのような行動に出るか、彼の心にどのような我執が残っているかは、お釈迦様にはすべて分かっていたはずなんです。
それにもかかわらずお釈迦様が糸を下ろしたのは、カンダタのたった一つの善行に対する慈悲であり、彼に改心し、真に救われる「機会」を与えたかったからなんですね。
糸が切れてカンダタが再び地獄に落ちたのは、彼の「我執」を彼自身に自覚させるための試練でもあったと言えます。
彼はこの経験を通して、自分の愚かさや利己主義が、いかに救いの道を閉ざすかを知ることになるんです。
※『蜘蛛の糸』の面白い点はこちらの記事で特集しています。

芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書いた理由を考察
芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書いた背景には、彼自身の文学的関心、当時の社会への眼差し、そして新たな表現への挑戦が複合的に絡み合っています。
この作品は単なる仏教説話の再話ではなく、芥川の深い思索と創作意図が込められた作品なんです。
彼が『蜘蛛の糸』を通じて何を表現しようとしたのか、その理由を探ることで作品への理解がより深まります。
以下の3つの観点から、芥川の創作動機を考察していきましょう。
- 東洋的なテーマの探求
- 人間社会への警鐘
- 児童文学としての新しい試み
これらの要素が相互に作用し合いながら、『蜘蛛の糸』という名作を生み出したんですね。
東洋的なテーマの探求
芥川は西洋文学や思想に深く傾倒しつつも、日本の古典や仏教説話といった東洋的な題材に強い魅力を感じていました。
彼は単にこれらの物語を再話するのではなく、そこに近代的な心理描写や倫理観を吹き込み、普遍的な文学作品として昇華させようと試みたんです。
『蜘蛛の糸』は、まさにその代表例なんですね。
この物語は、仏教の「因果応報」や「我執(がしゅう)」といった核心的な教えを基盤にしています。
カンダタのたった一つの善行(蜘蛛を踏まなかったこと)が救いの機会を与え、その後の利己的な振る舞いが再び地獄へ彼を引き戻すという展開は、仏教の因果の道理を明確に示しているんです。
また、彼が糸を独占しようとする姿は、人間が持つ根源的なエゴイズム、すなわち我執の恐ろしさを象徴しています。
芥川は、この物語を通じて、東洋的な精神性が持つ深遠な真理を、簡潔かつ鮮やかに表現したかったのではないでしょうか。
人間社会への警鐘
『蜘蛛の糸』が発表された大正時代は、自由な気風が広がる一方で、個人の欲望や権利が肥大化し始める過渡期でもありました。
芥川は、そうした社会の中で人間が陥りがちな自己中心性に対し、文学を通して警鐘を鳴らそうとしたと考えられます。
作中のカンダタは、極限状況下で「自分さえ良ければいい」という利己的な心を見せ、結果として自らの救いの道を閉ざしてしまうんです。
これは、当時の社会における競争原理や、他者を顧みない振る舞いが、最終的に個人の破滅を招く可能性があることを示唆しています。
芥川は、人間の普遍的な弱点であるエゴイズムを鋭く指摘し、「真の救済や幸福は、利他的な精神なくしては得られない」というメッセージを、この物語に込めたのかもしれません。
彼の作品には、常に人間の愚かさや弱さへの批判的な視線がありました。
『蜘蛛の糸』も例外ではなく、個人の利己心が社会全体の調和を乱すことへの警告として読むことができるんですね。
児童文学としての新しい試み
『蜘蛛の糸』は、小学校の教科書にも掲載されるなど、しばしば児童文学として扱われます。
当時の童話は、勧善懲悪や単純な教訓を説くものが主流でしたが、芥川はより深く、人間の心理や倫理に踏み込んだ作品を、子どもたちにも理解できる形で提示しようとした可能性があります。
物語はシンプルな構成でありながら、人間の心の複雑さや、救済の困難さといった重層的なテーマを含んでいるんです。
これは、子どもたちに単なる表面的な善悪だけでなく、物事の多面性や人間の本質について考えるきっかけを与えようとする、芥川なりの新しい児童文学への試みだったと言えるでしょう。
彼は、子どもたちにも哲学的な問いを投げかけ、読解力と思考力を育むことを意図していたのかもしれません。
『蜘蛛の糸』の物語は表面的には分かりやすいものの、その背後には深い思想と教訓が隠されています。
芥川は、年少の読者にも文学の奥深さと人生の複雑さを伝えたかったのではないでしょうか。
※『蜘蛛の糸』を通して芥川龍之介が伝えたいことは以下の記事にくわしく書いています。

振り返り
『蜘蛛の糸』の解説を通じて、この短編小説の奥深さと芥川龍之介の創作意図を探ってきました。
一見シンプルな物語の中に、人間の本質や社会への洞察、そして普遍的な教訓が巧妙に織り込まれていることがお分かりいただけたでしょうか。
この作品を理解するためのポイントをまとめると、以下のようになります。
- 『蜘蛛の糸』は人間のエゴイズムと救済をテーマにした多層的な寓話
- 蜘蛛の糸は希望、試練、そして人間のつながりの脆弱さを象徴している
- 登場人物は現代社会の様々な立場や概念を表現している
- 糸が切れた理由はカンダタの利己心と我執にある
- お釈迦様の行動は見通した上での慈悲と試練
- 芥川は東洋思想の探求、社会への警鐘、児童文学への挑戦を込めた
読書感想文を書く際には、これらの要素を踏まえながら、自分なりの解釈や現代社会との関連性について考えてみてください。
『蜘蛛の糸』は100年以上前の作品でありながら、現代を生きる私たちにも深く響くメッセージを持っています。
カンダタの行動を通じて、自分自身の心の中にある利己心や、真の救済とは何かについて考えることができるはずです。
この作品の真価は、単に道徳的な教訓を与えることではなく、読者一人ひとりに深い内省を促すところにあるのかもしれませんね。
※『蜘蛛の糸』のあらすじを書く際にはこちらの記事が参考になりますよ。

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