芥川龍之介『羅生門』は、解説のしがいがある小説です。
短編なのに奥が深くて、私も初めて読んだ時は「結局何が言いたいんだろう?」って思いましたね。
特に高校生の頃は、下人の心理の変化や老婆との対話の意味がピンと来なくて、感想文を書くのに苦労しました。
でも安心してください。
私自身、文学作品を読み続けてきた経験から、この作品の魅力と深い意味を皆さんにお伝えしたいと思います。
まず要点だけをまとめると……
- 『羅生門』は極限状況での人間のエゴイズムを描いた作品
- 舞台設定や登場人物の心理には深い象徴的意味がある
- 善悪の境界線があいまいになる人間の本質を問いかけている
「でも、古い作品だから現代には関係ないよね…」って思ってませんか?
実は『羅生門』のテーマは現代にも通じる普遍的な人間の問題を扱っているんです。
この記事では、読書感想文を書く予定の学生さんに向けて、『羅生門』の本当の意味と魅力を分かりやすく解説していきますよ。
それじゃあ、具体的な内容を見ていきましょう。
芥川龍之介『羅生門』はどんな話か簡単に解説
『羅生門』を理解するためには、まず基本的な要素を整理することが大切ですね。
この作品は一見シンプルな構造に見えますが、実は多層的な意味を持った複雑な物語なんです。
私が初めて『羅生門』を読んだ時も、表面的なストーリーは理解できたものの、その奥にある深い意味には気づけませんでした。
でも何度も読み返すうちに、芥川龍之介が巧妙に仕掛けた様々な要素が見えてきたんです。
『羅生門』を完全に理解するためには、物語の基本要素と作者の意図を分けて考える必要があります。
まずは以下の3つの観点から『羅生門』を整理してみましょう。
- いつ、どこで、誰が、何をした話か?
- メインテーマ
- 何が言いたい話か?
これらの要素を一つずつ詳しく解説していくことで、『羅生門』の全体像が見えてきますよ。
それでは、具体的な内容を見ていきましょう。
いつ、どこで、誰が、何をした話か?
『羅生門』の基本設定は、まさに物語の核心を理解する鍵となります。
時代設定は平安時代末期、具体的には地震や飢饉、疫病が続いて都が荒廃しきった時期です。
場所は京都の羅生門(羅城門)という、かつては都の正門として威厳を誇っていた巨大な門ですが、物語の時代には修理もされず荒れ果てて、死体が打ち捨てられる場所になっていました。
主人公は「下人(げにん)」と呼ばれる若い男性で、主人にクビにされて生活に困窮している状況にあります。
彼は雨宿りのために羅生門に入り、そこで死体から髪の毛を抜いている老婆と出会うんです。
下人は最初、老婆の行為に強い憤りを感じて問い詰めますが、老婆が「生きるためには仕方がない」と答えるのを聞いて、自分も生きるために老婆の着物を奪って逃げていきます。
この一連の出来事は、わずか数時間の間に起こった出来事なのですが、その短時間で下人の人生観が根底から変わってしまうという劇的な変化を描いているんです。
※『羅生門』のくわしいあらすじはこちらの記事でご覧ください。

メインテーマ
『羅生門』のメインテーマは、一言で表現するなら「極限状況における人間のエゴイズムと道徳観の崩壊」です。
芥川龍之介は、人間が追い詰められた時にどのような行動を取るのか、そしてその行動をどう正当化するのかを鋭く描写しています。
下人は物語の冒頭では、盗人になることを躊躇している普通の青年でした。
しかし老婆との出会いを通じて、「生きるためなら悪事も許される」という論理を獲得し、実際に盗みを働くようになります。
この変化は単なる堕落ではなく、生存本能が道徳観を上回った瞬間を描いているんです。
また、作品全体を通じて「善悪の相対性」というテーマも浮かび上がってきます。
老婆の行為は確かに倫理的には問題がありますが、彼女なりの生存の論理があり、下人もまた同じ論理で自分の行為を正当化します。
読者は誰が悪で誰が善なのか、明確な答えを見つけることができず、人間の行動の複雑さを考えさせられるのです。
何が言いたい話か?
芥川龍之介が『羅生門』を通じて伝えたかったメッセージは、非常に深刻で普遍的なものです。
この作品は、人間の本質的なエゴイズムと、それが社会の荒廃によっていかに容易に表面化するかを描いています。
下人の心理変化は、私たち現代人にも通じる問題を提起しています。
経済的困窮や社会不安に直面した時、人間はどこまで自分の道徳観を保持できるのでしょうか。
芥川は『羅生門』を通じて、「生きるため」という名目で行われる悪事の正当化のメカニズムを明らかにしているんです。
老婆の「この死人も生前に悪いことをしていた」という論理は、現代でもよく見られる「相対化による正当化」の典型例です。
また、物語の結末で下人が闇の中に消えていくという描写は、一度道徳の境界線を越えてしまった人間がどこに向かうのか分からないという、人間存在の不安定さを象徴しています。
『羅生門』は単なる時代小説ではなく、いつの時代にも通用する人間の本質的な問題を扱った作品なのです。
私たちは日常生活において、小さな「羅生門の瞬間」に遭遇することがあります。
そんな時、この作品が提示する問題意識を思い出すことで、自分自身の行動を客観視できるようになるでしょう。
※芥川龍之介が『羅生門』で伝えたいことはこちらで考察しています。

芥川龍之介『羅生門』を高校生向けに解説~5つの疑問点~
『羅生門』を読んだ高校生からよく投稿される疑問って、実はとても本質的なものが多いんです。
特に『羅生門』は短編でありながら、細部に様々な意味が込められているため、一度読んだだけでは見落としてしまう要素がたくさんあります。
高校生が『羅生門』について抱く疑問は、文学作品を深く理解するための重要な入り口になります。
今回は、特に多く寄せられる5つの疑問について詳しく解説していきますね。
これらの疑問を理解することで、『羅生門』の奥深さがより鮮明に見えてくるはずです。
- なぜ舞台が羅生門なのか?
- にきびの意味や象徴性
- 老婆が自己を正当化している論理
- 下人が老婆に怒りを覚えた理由
- 下人はその後どうなったか?
これらの疑問は一見些細に見えるかもしれませんが、実は芥川龍之介の巧妙な仕掛けと深い人間洞察が隠されているんです。
それでは、一つずつ丁寧に解説していきましょう。
なぜ舞台が羅生門なのか?
羅生門という舞台設定は、芥川龍之介が意図的に選んだ象徴的な場所なんです。
羅生門は平安京の正門として、都と外界を隔てる境界線の役割を果たしていました。
物語の時代には、この門は荒廃して死体が打ち捨てられる場所になっており、まさに「生と死」「文明と野蛮」「善と悪」の境界を象徴する場所として機能しています。
下人がこの門で運命的な出会いを果たすことで、彼自身も境界線を越えていくという構造になっているんです。
また、羅生門は「上層」と「下層」という垂直的な構造を持っています。
下人は最初、門の下で雨宿りをしていましたが、やがて上に登って老婆と出会います。
この「上昇」の動きは、彼の心理的変化と対応しており、物理的な移動が精神的な変化を象徴的に表現しているのです。
さらに、羅生門は歴史的にも重要な意味を持っています。
平安時代末期の社会の荒廃を背景とすることで、個人の道徳的堕落が社会全体の腐敗と密接に関連していることを示しているんです。
私たちが現代社会で感じる不安や混乱も、実は『羅生門』が描く状況と本質的には変わらないのかもしれません。
にきびの意味や象徴性
下人の「右の頰に大きなにきび」という描写は、一見些細な外見描写に見えますが、実は重要な象徴的意味を持っています。
にきびは若さの象徴であると同時に、精神的な未熟さや内面の葛藤を表現する装置として機能しているんです。
下人はまだ若く、人生経験が浅いからこそ、善悪の判断に迷いを感じています。
にきびという「不完全さ」「汚れ」を示す身体的特徴は、彼の道徳的な未熟さを暗示しているとも解釈できます。
また、にきびは成長期の象徴でもあります。
下人が物語を通じて経験する心理的変化は、ある種の「成長」とも捉えられますが、それは決して健全な成長ではありません。
むしろ、純粋さを失って現実に妥協していく過程を表しているのです。
さらに興味深いのは、物語の中でにきびに関する描写が心理描写と密接に関連していることです。
下人が内面の葛藤を抱えている時ほど、にきびへの言及が多くなる傾向があり、彼の精神状態を表現する重要な指標となっています。
現代の私たちも、ストレスや悩みを抱えた時に肌の調子が悪くなることがありますよね。
芥川龍之介は、そうした心身の関連性を巧妙に作品に織り込んでいるのです。
老婆が自己を正当化している論理
老婆の論理は、『羅生門』の核心部分を理解する上で極めて重要な要素です。
老婆は「生きるためには仕方がない」という理由で、自分の行為を正当化しています。
彼女の論理構造を詳しく分析すると、以下のような段階があります。
まず、「生存」を最優先の価値として設定し、その他の道徳的価値を相対化します。
次に、自分よりも「悪い」行為をした人間の存在を持ち出すことで、自分の行為を相対的に軽く見せようとします。
最終的に、「死人も生前に悪いことをしていたのだから、自分が髪を抜いても許してくれるだろう」という循環論法で結論づけるのです。
この論理は一見もっともらしく聞こえますが、実は非常に危険な思考パターンなんです。
なぜなら、この論理を適用すれば、どんな悪事でも「生存のため」「他にもっと悪い人がいるから」という理由で正当化できてしまうからです。
現代社会でも、経済的困窮を理由にした犯罪や、「みんなやっているから」という理由での不正行為など、老婆と同じような論理で自己正当化が行われることがあります。
芥川龍之介は、こうした人間の心理メカニズムを鋭く観察し、文学作品として昇華させているのです。
下人が老婆に怒りを覚えた理由
下人が老婆に対して激しい怒りを覚える場面は、彼の内面の複雑さを表現する重要なシーンです。
下人の怒りには、道徳的義憤と自己投影という二つの側面があります。
まず道徳的義憤について説明すると、下人は老婆が死体から髪を抜くという行為に、人間として許せない嫌悪感を抱きます。
これは、彼の中にまだ基本的な道徳観念が残っていることを示しています。
しかし、より深層的には、老婆の姿に自分自身の将来を重ね合わせた不安と恐怖があるのです。
下人は「盗人になるしかない」と考えながらも、それを実行に移すことを躊躇していました。
老婆の姿は、彼が恐れている「堕落した自分」の具現化とも言えるでしょう。
だからこそ、老婆に対する怒りは異常なほど激しいものになるのです。
心理学的に言えば、これは「投影」という防衛機制の一種です。
自分が受け入れがたい感情や欲望を他者に投影し、その他者を攻撃することで、自分自身の内面的葛藤から逃れようとするメカニズムです。
私たちも日常生活で、他人の行動に過度に腹を立てる時、実は自分自身の問題を相手に投影していることがあります。
芥川龍之介は、こうした人間心理の微妙な動きを見事に文学的に表現しているのです。
下人はその後どうなったか?
物語の結末で、下人が
下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
■引用元:芥川龍之介 羅生門
という表現は、様々な解釈を可能にする象徴的な描写です。
下人の運命は明示されていませんが、それこそが芥川龍之介の意図した効果なのです。
文字通りの解釈では、下人は老婆の着物を奪って逃げ、盗人として生きる道を選んだということになります。
しかし、「夜の底」という表現は、単なる物理的な場所ではなく、道徳的な闇、人間性を失った状態を象徴していると考えられます。
下人は物語の冒頭では、まだ善悪の区別がついている普通の青年でした。
しかし老婆との出会いを通じて、彼の中の道徳的歯止めが完全に外れてしまいます。
この変化は不可逆的なものであり、もはや元の下人に戻ることはできないでしょう。
また、結末の曖昧さは、読者に対する問いかけでもあります。
私たちも極限状況に置かれた時、下人と同じような選択をしないと言い切れるでしょうか。
そして、一度道徳的境界線を越えてしまった人間は、その後どのような人生を歩むのでしょうか。
芥川龍之介は答えを示すのではなく、読者自身に考えさせることで、より深い問題意識を喚起しているのです。
現代社会においても、経済的困窮や社会的圧力によって「夜の底」に向かってしまう人々が存在します。
『羅生門』は、そうした現実を予見した作品とも言えるでしょう。
振り返り
『羅生門』について詳しく解説してきましたが、この作品の奥深さを改めて実感しますね。
本作品は1915年に発表された芥川龍之介の代表作で、平安時代末期の荒廃した京都を舞台に、極限状況に追い込まれた人間の心理を描いた傑作。
芥川龍之介は「日本の短編小説の神様」とも呼ばれる作家で、わずか35年の生涯で数多くの名作を残しました。
年間100冊以上の本を読んでいても、芥川龍之介の作品は読むたびに新しい発見があります。
特に『羅生門』は、短編でありながら人間の本質的な問題を鋭く描いた傑作です。
読書感想文を書く際には、表面的なストーリーだけでなく、作品に込められた深いメッセージを理解することが重要です。
今回の解説で取り上げた要点を振り返ってみましょう。
- 『羅生門』は極限状況における人間のエゴイズムを描いた普遍的テーマの作品
- 舞台設定や登場人物の細かい描写にも深い象徴的意味が込められている
- 善悪の境界線が曖昧になる人間の本質的な問題を提起している
- 現代社会にも通じる人間心理の複雑さを文学的に表現している
『羅生門』を理解することで、文学作品を読む力だけでなく、人間や社会を見る目も養われるはずです。
読書感想文を書く時は、自分自身の体験や現代社会の問題と関連付けて考えてみてくださいね。
きっと深みのある素晴らしい感想文が書けるはずですよ。
※『羅生門』の読書感想文を書く際はこちらの記事を参考になさってください。

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