『走れメロス』はおかしいって思いませんか?
私も『走れメロス』を読むたびに「うーん、これってちょっと変じゃない?」と感じることがあるんです。
『走れメロス』は1940年に発表された太宰治の短編小説で、友情と信頼をテーマにした感動的な物語として教科書にも掲載され、多くの人に愛され続けています。
主人公メロスが暴君ディオニスから妹の結婚式のために故郷へ帰ることを許され、親友セリヌンティウスを人質に3日間の約束で帰郷する物語。
でも正直言って、この作品には現代の感覚で読むと「えっ、それはちょっと…」と思ってしまう部分がたくさんあるんですよね。
読書感想文を書く予定の学生さんなら、きっと同じような疑問を抱いているはず。
まず要点だけをまとめると……
- 『走れメロス』には現実離れした設定や展開が7つある
- これらの「おかしさ」は失敗ではなく太宰治の計算された演出
- 違和感があることで読者に深く考えさせる効果がある
「でも、名作って言われてる作品だから、批判的に見るのは良くないかな…」って思ってませんか?
でもご安心を。
この記事では、同じ疑問を持った読者の視点から、『走れメロス』の「おかしい」部分を具体的に分析し、それが作品にどんな意味を与えているのかを詳しく解説していきますよ。
私も最初は「なんでこんな展開になるの?」と困惑したんですが、太宰治の意図を理解すると、この作品の奥深さが見えてくるんです。
それじゃあ、具体的に『走れメロス』のおかしな点を見ていきましょう。
『走れメロス』のおかしい7つの点
『走れメロス』を読んでいると「これ、現実的に考えておかしくない?」と感じる場面が次々と出てきますよね。
特に読書感想文を書くために真剣に読んでいる学生さんなら、きっと同じような違和感を抱いているはず。
実は、この作品には現代の視点から見ると不自然で理解しにくい点が7つもあるんです。
これらの点を一つずつ詳しく見ていくことで、物語の構造や太宰治の意図がより明確に見えてくるでしょう。
- 王が人質システムを即採用する不自然さ
- 妹の結婚の優先順位が現実離れしている
- メロスの感情の起伏が極端すぎる
- セリヌンティウスが終始受け身すぎる
- 移動距離と時間が物理的に非現実的
- 登場人物全員が急に改心しすぎる
- 肝心の友情の描写が意外に薄い
これらの「おかしさ」は、単なる物語の欠陥ではなく、実は太宰治が読者に投げかけている重要なメッセージなんです。
それでは、各点について具体的に分析していきましょう。
王が人質システムを即採用
物語の序盤で、メロスが暴君ディオニスに「妹の結婚式に出席させてほしい」と申し出ると、王は即座に「親友を人質にすれば3日間の猶予を与える」という人質システムを提案します。
この展開、政治的に考えるとめちゃくちゃ不自然じゃないですか?
暴君として描かれているディオニスが、見ず知らずのメロスの言葉をそこまで信用する理由がありません。
普通なら「そんな都合のいい話があるか!」と一蹴するか、もっと慎重に検討するはずですよね。
でも物語では、王が何の躊躇もなく人質システムを採用してしまう。
これは物語を迅速に進めるための設定であり、現実的な政治判断や手続きの描写が完全に省略されているんです。
妹の結婚の優先順位が不自然
メロスは自分の命がかかった状況でも「妹の結婚式」を最優先に考えます。
確かに家族は大切ですが、現実的には命の危険と家族行事の優先順位が逆転するのはちょっと理解しにくいですよね。
普通の人なら「まず自分が生き延びてから、改めて妹の結婚を祝おう」と考えるんじゃないでしょうか。
でも『走れメロス』では、妹の結婚が極端に重視されており、物語の都合でこの価値観が押し通されています。
これも現代の感覚からすると、かなり違和感のある設定です。
メロスの感情の起伏が極端すぎる
メロスの感情変化を追ってみると、その振れ幅の激しさに驚かされます。
王の悪政を知るや否や激昂し、すぐに王を討とうと決意。
その後も絶望→決意→歓喜→疲労→絶望→再決意と、めまぐるしく感情が変化していくんです。
現実の人間心理として、これほど激しい感情の変化を短時間で繰り返すのは不自然ですよね。
物語のテンポを優先した結果、キャラクターの感情表現が現実離れしてしまっています。
普通の人なら、もう少し一貫した心理状態を保つはずです。
セリヌンティウスが受け身すぎる
親友セリヌンティウスの行動も、よく考えると不自然な点が多いんです。
メロスの申し出をほとんど無条件で受け入れ、最後まで受け身のまま人質役を全うします。
でも普通なら「本当に大丈夫なのか?」「他に方法はないのか?」と質問したり、自分なりの提案をしたりしますよね。
彼自身の葛藤や主体的な行動がほとんど描かれていないんです。
友情の深さを示すには、もう少し彼の内面や積極的な関わりが必要だったのではないでしょうか。
移動距離が非現実的
『走れメロス』最大のツッコミどころが、この移動距離の問題です。
メロスが走る距離や時間、途中で遭遇する川の氾濫や山賊などの障害を考えると、現実的には到底間に合わない設定になっています。
3日間(実質2日間)でシラクスの街と故郷を往復し、しかも途中で疲労困憊しながらも最終的には爆走するという展開。
地理的・物理的なリアリティは完全に無視されているんです。
これは物語のクライマックスを盛り上げるための演出ですが、現実離れしすぎていて「それはないでしょ」と突っ込みたくなりますよね。
王様もメロスも市民も急に改心しすぎ
物語の終盤で起こる登場人物たちの心境変化も、あまりにも唐突で不自然です。
メロスとセリヌンティウスの再会シーンを見た王や市民が、突然「信頼の尊さ」に目覚めて改心してしまいます。
でも現実の人間や社会って、そう簡単に変わらないですよね。
心情変化の過程が省略されており、説得力に欠けているんです。
物語のテーマを強調するための演出とはいえ、もう少し段階的な変化があれば説得力が増したのではないでしょうか。
そもそも友情の描写が薄い
最後に、この作品の最大の問題点かもしれません。
『走れメロス』の核心テーマは「友情」のはずなのに、メロスとセリヌンティウスの具体的な友情のエピソードがほとんど描かれていないんです。
どのような経緯で親友になったのか、普段どのような交流があったのか、そうした背景がまったく説明されていません。
ただ「親友」という設定が与えられ、その絆が絶対的なものとして扱われているだけなんです。
読者が二人の絆を実感しにくい構成になっており、感情移入しづらいと感じる人も多いでしょう。
友情を描くなら、もっと具体的なエピソードや心理描写が欲しかったところですね。
※それでも『走れメロス』が長年愛されるのはこんな面白い点があるからです。

『走れメロス』はおかしい=失敗作?それとも計算された演出?
ここまで『走れメロス』の「おかしい」点を7つ挙げてきましたが、じゃあこの作品は失敗作なのでしょうか?
実は全然そんなことはないんです。
これらの「おかしさ」は、太宰治が意図的に仕掛けた計算された演出である可能性が高いんです。
太宰治は、単純な勧善懲悪の物語を書きたかったわけではありません。
むしろ、既存の価値観や道徳観を問い直し、読者に深く考えさせることを狙っていたと考えられます。
- 太宰治特有の「道徳風アンチ道徳」の視点
- 価値観のアップデートを促す名作としての役割
- ツッコミどころがあることで生まれる議論の価値
これらの観点から『走れメロス』を読み直すと、作品の奥深さと太宰治の巧妙な戦略が見えてきます。
一見すると単純な友情物語に見えるこの作品が、実は非常に複雑で多層的な構造を持っていることがわかるでしょう。
太宰治特有の「道徳風アンチ道徳」
太宰治の作品には、表面的には道徳的で美しい話に見えながら、その裏で既存の価値観を皮肉っぽく描く特徴があります。
『走れメロス』も、一見すると「友情」「信頼」「正義」といった崇高な道徳をストレートに描いた物語に見えますよね。
でも実際には、その裏に太宰特有の「道徳風アンチ道徳」の視点が隠されているんです。
メロスが「人間は、互いに信じあわなければならない」と叫びながら、極度の疲労から絶望し、親友を疑う瞬間が描かれています。
彼の感情の極端な起伏や現実離れした行動は、「人間は決して理想的な道徳規範を常に守れる存在ではない」という太宰の人間観を反映しているんです。
人間は弱く、すぐに揺らぐ存在でありながら、それでもなお「信じること」を選び取ろうとする姿を描くことで、単なる道徳の押し付けではない、人間性の深い部分を表現しようとしています。
つまり、「おかしい」と感じる点は、高潔な道徳性を描きつつも、その裏にある人間の脆さや葛藤をあぶり出すための意図的な手法だったと考えられるんです。
太宰は読者に「本当の信頼とは何か」「理想と現実のギャップをどう受け入れるか」を問いかけているのかもしれません。
※『走れメロス』を通して太宰治が伝えたいことは以下の記事にまとめています。

価値観のアップデートとして読む名作
『走れメロス』が書かれた1940年は、戦時色が濃くなりつつあった時代でした。
当時は国家や全体主義への奉仕といった価値観が強調される中で、太宰は「個人の尊厳」「友情」「信頼」といった普遍的な人間的価値を力強く描き出したんです。
現代の視点から「非現実的だ」「不自然だ」と感じる描写の数々も、当時の価値観や文脈、あるいは物語が持つ寓話性を考慮すると、むしろ深く納得できる部分があります。
例えば、物理的に無理な移動距離は、メロスの精神的な限界への挑戦を象徴しているんです。
王や市民の急な改心は、純粋な信頼の力が社会を変革しうるという希望的なメッセージを伝えるための表現として理解できます。
この作品は、時代を超えて読み継がれる中で、読者自身の価値観をアップデートするきっかけを与えてくれるんです。
表層的なリアリズムを超えて、人間が何を信じ、どう生きるべきかという根源的な問いを投げかけています。
読者それぞれが「友情とは何か」「信頼とは何か」「正義とは何か」を深く考えることを促しているんですね。
ツッコミどころがあるからこそ「議論が生まれる」
『走れメロス』の「おかしい」と感じられる点の多さは、実は作品の魅力の一つでもあるんです。
完璧に整合性の取れた物語は、時に読者に思考の余地を与えないことがありますが、適度な「ツッコミどころ」は、読者に議論を促し、多様な解釈を生み出すきっかけとなります。
なぜ王はあんなに簡単に人質システムを採用したのか?
なぜメロスはあんなに早く走れたのか?
こうした疑問は、読者が物語の表面だけでなく、その背後にある作者の意図や普遍的なテーマについて深く考察する扉を開くんです。
教科書教材として長年使用され、議論を呼んできたのも、まさにこの「ツッコミどころ」が引き出す思考の活性化に他なりません。
もし『走れメロス』が完璧にリアルで説得力のある物語だったら、これほど多くの人に読まれ、議論され続けることはなかったかもしれません。
違和感や疑問があるからこそ、読者は能動的に作品と向き合い、自分なりの解釈を見つけようとするんです。
その結果、読書感想文でも多様な視点や意見が生まれ、より深い学習につながっているんですね。
振り返り
『走れメロス』のおかしい点について詳しく分析してきましたが、納得いただけたでしょうか。
最初は「なんか変だな」と感じていた部分も、太宰治の意図や時代背景を理解すると、全く違った意味を持って見えてきますよね。
この記事の要点をまとめると……
- 『走れメロス』には現実離れした設定や展開が7つある
- これらは失敗ではなく太宰治の計算された演出
- 道徳風アンチ道徳の視点で人間の矛盾を描いている
- 価値観のアップデートを促す普遍的なメッセージがある
- ツッコミどころがあることで深い議論が生まれる
読書感想文を書く際は、単純に「感動した」「友情は大切だと思った」で終わらせるのではなく、こうした作品の複雑さや矛盾点についても触れてみてください。
「おかしい」と感じる部分があることこそが、この作品が時代を超えて愛され続けている理由なのかもしれません。
あなたが『走れメロス』を読んで感じた違和感や疑問も、きっと太宰治が意図していた反応の一つです。
その違和感を大切にしながら、自分なりの解釈を見つけていってくださいね。
※『走れメロス』の読書感想文の作成にはこちらのあらすじをまとめた記事が役立つはずです。

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